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Ⅳ-三_三日市から入善を経て泊まで

三、三日市から入善を経て泊まで
(1)概観
 三日市から入善を経由して泊に至る道路は、近世前期までは北陸道の主街道の一部であった。黒部川渓口部の愛本を迂回する新道が開設されたのは、黒部川が荒川で下流は川幅が広く川瀬も定まらず、出水すれば往来が止って旅人が難儀するために、廻り道ではあるが常時通行可能な経路をとるようにしたもので、新路を上往還、旧路を下往還と称した。下往還は三日市から泊まで四里四町五三間の道程で、上往還に比して一里半程も近かったから、冬の減水期には水瀬を見はからって数箇所に仮橋を架けこれを通行する人が多かった。
『三州地理志稿』には「入膳道」として次のように記している。「自新川郡三日市村。歴入膳駅至泊駅。名之入膳道。三日市村至植木村十二町三十間。植木村至隻こう《つちへんに侯》六町三十四間。隻こう《つちへんに侯》至沓掛村三町。沓掛村至黒部川以舟渡十二町。黒部川至東狐村二十三町。東狐村至柴垣村五町四十四間。有隻こう《つちへんに侯》。自沓掛村隻こう《つちへんに侯》此一里七町四十四間。 柴垣村至青木村岐路五町五〇間。柴垣村至青木村岐路五町五十間。青木村岐路至町上野村十五町十間。町上野村至入善駅九町。自三日市駅至此二里二十町四十八間。入善駅至君島村七町。君島村至椚山新村至田又村三町。田又村至藤原新村九町藤原新村至古黒部村六町。古黒部村至小川五町。小川至西草野村三町西草野村至岡田村七町二十間。岡田村至泊駅六町四十五間。自入善駅至此通計一里二十町五間。自三日市駅至此其間四里四町五十三間也。官道自三日市駅歴愛本至此。其路程五里二十二町三十六間。以之此入善道。其近一里十七町四十三間。」
 隻こう《つちへんに侯》とは一里塚のことで、沓掛と柴垣のそれは高樹文庫の「往還図」にも描かれており、前者は『越中道記』に「壱里山沓懸町はつれニ有」とし、後者も「壱里山与入膳町之間三拾壱町四拾八間」と記されるものにあたるが、『地理志稿』に入膳(善)・泊間に隻こう《つちへんに侯》がないのは、この間の道筋が『越中道記』に示す近世前期の道筋とは異なるためである。前期の街道は入膳から海岸の横山・赤川を通り、当時は笹川の右岸にあった泊に至ったもので、一里山もこの間にニカ所あった。この間の街道の変遷は、この地方に顕著な海岸侵蝕によって道筋が維持できなくなったためと思われ、現在では旧道の痕跡や一里塚の遺構などは全く見ることができない。おそらく横山・赤川などの集落も当時の位置から移動したものであろう。泊町の移転も海岸侵蝕にもとずいている。

(2)現況
(ア)三日市から上野ヘ
〔三日市から沓掛〕
 黒部市役所入口から五〇メートル程東に行ったところで、東にのびる本街道の浦山往来に対して、入善道はほぼ直角に北折する。この角には道程標と大きい屋敷構えの茶屋があった。天明二年(一七八二)の絵図によれば、三日市の本通りは入善道に沿って曲り、その道幅も浦山道に比して広く描かれている。下往還が本道であった当時からのなごりを示すものであろう。地鉄東三日市駅の西側の踏切を渡って、約五〇〇メートルで東方に曲り、二〇〇メートル程でまた北折する。高橋川にかかる矢当橋を渡ると市街の外れとなる。
 やがて、植木集落に入るが、木樹神社前を通ると尼寺の東信庵があり、境内に多くの石仏が見られ、台座に猿と鶏を刻む青面金剛像の庚申塔などがある。金屋への岐路に、「高祖聖人御旧跡、金屋浄永寺、是ョリ四丁西へ入」と刻む案内碑が建てられている。高祖聖人は顕如上人で浄永寺にはその真影の裏銘文があり市指定文化財となっている。
 沓掛部落に入ると右手に「明治天皇御小休所」と記す石碑が門前に建つ本伝寺がある。『往来筋絵図』には沓掛の入口に近く一里塚が描かれているが、現在その痕跡は認められない。明治末年頃までは集落の外れ道路の北側にだけ塚があったが、特に木はなかったという。沓掛には八幡社を祀る。沓掛はその地名から古駅跡とされ、この地を『延喜式』布勢駅に比定する説が多い。しかし、一志茂樹氏によれば一般的に沓掛の地名は峠の麓、原野や森林地帯の入口、村落地帯を遠く隔たるところ、河岸、通路難の箇所などに見受けられる地名で、必らずしも駅に関係するものではなく、むしろ駅の所在地としては不適当な地点が多いという。この場合もまさに黒部川の河岸にあたり渡河のための準備をする地点であったといえる。
〔黒部川〕
 『大路水経』には、「入膳往来下往還道筋、沓掛村より東狐村まで川幅川原共道程一里余有之此間川瀬不定、何十筋にも分流する也。夏中早水の時にても舟渡三四ケ所、其外ハ歩渡なり。少の出水ニても渡舟不立、川越人相頼往来するなり。此故に大体の者ハ下往還通路ハなし。尤十月より春二月中頃迄冬中ハ山中雪氷る減水に相成、水瀬見図り東狐村・沓掛村等より五六ヶ所仮橋を架、往来する故に冬中ハ下往還道筋通路する人多し。」と記している。『地理志稿』によれば沓掛・東狐間が三五町となるので、両集落間がそのまま川幅とされたものらしい。『往来筋絵図』では両岸に記す堤防状の記号の間は約一・五キロメートル、実際の河流によって道路が途切れる部分は約六四〇メートルで、上飯野と出島の集落は渡渉点の上流と下流にそれぞれ河中の島として描かれている。
 現在の川幅は旧道の渡渉地点付近で約五七五メートルで、左岸では四列の霞堤を築き、その外側から三列目までの間に廃道となった旧国道時代の道路床が見られる。旧国道をつないでいた黒部橋は、幾多の変遷を経ていく。天保のころ(一六三〇―四三)は、前述のように沓掛から東狐まで川幅が川原とともに四キロメートル余もあり、流れの少ない一〇月から二月にかけて、水の瀬を見はからって、仮橋をかけて通行した。明治二〇年には、三日市町の有志石塚孫平氏などが賃取橋の架設を願い出て、西半分は鉄鎖で吊り橋に東半分は板橋にして、これを桜枝橋と名づけた。その後、富山県が引継ぎ、明治三一年に木橋が竣工し、黒部橋と改称した。この木橋は大洪水ごとに流失し、渡舟となることがさいさいであった。現在の黒部大橋は国道八号線の建設にともない昭和三三年に五年がかりで完成した永久橋である。
 現在の黒部川の河道は本流一本となっているが、江戸の末期までは河道が安定せず、四十八瀬そのものであったことが古絵図によって偲ぶことができる。また、昭和の初期までは、右岸一帯は河川後湿地で、ハンノキ、アカマツを主体とした林野が帯状に発達していた。またこの林野の一部を明治の初期に、三日市町の有志によって開拓されたところ、入膳あたりの人たちが「石の頭にコメならす」といって、その無望さを笑ったとのことである。黒部川扇状地の開拓は、開拓と荒廃との連続を覚悟しての強靭性がなくては、ここに生活することができないきびしい環境であった。沿岸の家々には川舟が吊され、護岸提防上にはマツを植え、蛇篭の材料を整え、部落の神社を防水の拠点に据え、屋敷にはタケヤブを造成し常に洪水に対する非常時体制がとられていた。
〔黒部川東岸から青木へ〕
 右岸の入善町上飯野の入口に、「明治天皇御野立所」の碑が建てられている。集落を出外れて二~三〇〇メートルに街道松が三本残っている。東狐(トツコウ)の集落北端には真宗西派の善称寺があり、門前に「蓮如上人御遺跡、移高月之高地於此」と記している。
 『往来筋絵図』によれば、通例としては道路の両側に相対して記される一里塚の記号が、柴垣新村では二つ共に道路を外れて東南側に描かれているのは、あるいは一里塚設置後に道筋を変えたものであろうか。近年まで第3図のように塚の痕跡があったというが、耕地整理によって消滅し、今は木製の標柱が僅かにその跡を示している。
 月又川を渡って青木に入る。『地理志料』に「青木村岐路」とあるように、青木は街道を外れた集落であったが、近代に入ってから周辺の村と合した青木村の中心地として、街道の十字路沿いに新らしい集落を形成した。十字路を越えて左側に「殉難之僧釈信蔵碑」が建てられている。信蔵は同村浄慶寺の僧で同志を集めて本願寺光寿を援けたために、慶長二年(一五九七)前田利長によって斬罪に処されたもので、ここにはその首塚があり六本松があった。
〔入膳〕
 町上野で道路はS字状に屈曲して、まもなく持専寺の門前で二路となり、左手が旧道で入善の市街に入る。入善は古くは金沢と称したが、加賀の金沢とまぎらわしいので、入膳郷一五村の中心地として入膳というようになったもので、入前と書いたこともあるが、現在は入善の字を用いている。入膳道唯一の宿駅で、寛文六年(1六二九)駅馬二三匹を置き、本陣も置かれた。
 旧本陣跡に近い町の中心部にある北陸銀行入善支店前に、大正初年に建てた木製の路程標があり、正面に「距富山市西町元標十一里二丁四十六間入善町」、右側面に「至三日市町二里二十一町五十五間三尺、泊町一里二十一丁」、左側面に「至越後国界境村三里十九町二十八間」、背面に「大正二年建設富山県」と記す。
 街中の東寄りに椚山用水の中又川に架けられた橋を「高札橋」というのは、その東岸南側に高札場があったからである。
〔入善から泊まで〕
 入善の市街を出外れて、国鉄北陸線の踏切を渡り、約四〇〇メートルの君島で、東方に向う道と北に向う横山への道が分岐し、ここに享和三年(一七四三)造立の石の道標があり、正面に「左横山道」としてその下に仏像を刻み、右側に「右ほんど□里」と記すのは「右本通り」であろう。
 君島から泊までの道は、明暦二年(一六五六)に開通した新道である。椚山用水を渡り、椚山新・田の又・藤原の諸集落を過ぎて入川を渡る。入川の流路は黒部川の旧河道の一つで、「往来図」には「黒部入川跡」として幅約七〇メートルの川跡を破線で示している。『大路水経』によれば文政・天保(一八一八― 四四)当時も、洪水の際はこれに分流していた。
 自然堤防状の微高地に位置して、街道沿いの集落らしいたたずまいをいくぶん残す古黒部をぬけると小川に達する。小川は「往来図」によれば、川幅約一七〇メートルに描かれており、現在の川幅約一二〇メートルに比してやや広かったらしい。右岸の草野側の段丘崖が顕著であるから、昔時の流路は現在よりやや東寄にひろがっていたものではなかろうか。『大路水経』によれば、歩渡りであるが出水時には河岸の村々から川越人足が出た。なお、小川は往還渡し場から下流を赤川と呼んだ。
 西草野は小川右岸の低い段丘上にあり、北方に赤川への道を分岐する。ここには追分姓の家が多く、石仏なども交通集落らしい雰囲気をただよわせる。西草野から約七〇〇メートルで現在西町と呼ばれている岡田を通ると、まもなく泊の旧町並に入る。町に入って約二〇〇メートルで南から来る舟見往還に合するが、ここは十字路に国鉄泊駅から斜行する道が加わって五叉路となっている。
〔海岸侵蝕に失なわれた旧北陸道と廃止された宿駅〕
 前述したように近世初期の北陸道は入善から横山・赤川を経由して、当時は笹川右岸にあった泊町に至っていた。『越中道記』や『越中国四郡絵図』に示すところである。また、作製年代不詳の「従加州金沢至武州江戸道中図」(県立図書館蔵)にも、入膳から君嶋・ヤハタ・横山・春日村・赤川村・大屋村を経由して泊に至る経路が示されている。この間、八幡と横山とがならんで宿駅をつとめていたものである。この海岸沿いの道は、度々波浪による海岸侵蝕のためにその機能をはたせなくなった。すなわち、『入膳由来記』によれば、明暦元・二年(一六五五・六)と続く高波の被害によって、明暦二年に古黒部村を通る新道が開通され、横山と八幡は街道筋から離れることになったので、延宝七年(一六七九)に宿駅は廃止されるにいたった。
 また、泊町は享保二年(一七一七)に高波の被害を受けて、翌三年に現在地に移転することになったものである。
 したがって、この間の旧北陸道の道筋は僅かに、君嶋・横山間に地方的な道として残されるにすぎない。赤川付近にあった一里塚はもちろん海没したと考えられるが、横山と入膳の間にあった一里塚は、「越中新川郡三日市駅浦山往還追分ヨリ入膳駅通り泊り町駅舟見往還追分マテ往還道筋一丁二分之絵図」によれば、君嶋の新旧道の分岐点から二町余横山駅よりに描かれており。『測量図籍』にも記されている。入善町竹内慎一郎氏の教示によれば、近年までその痕跡は残っていたという。この道筋に沿う入善八幡社は入善荘に由来する古社であり、村名のもととなったものである。
 現在の八幡・横山・赤川などの集落はいずれも海辺に位置しているが、現在もこの地方の海岸侵蝕は甚だしく、これを防止するためのコンクリートの護岸堤と、テトラポットの離岸堤が構築されている。
(木下良。本多啓七)
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