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加賀の道 第七章 町を結ぶ道 第一節 宮腰・松任往来

第七章 町を結ぶ道

第一節 宮腰・松任往来

道の概要
 石川郡有数の在郷町・松任と金沢の外港・宮腰をつなぐこの往来がいつ頃から存在していたのかは不明である。しかし両町が金沢を経由せず直接交通経路を使うということは、双方の経済的発展と自立がその背景に窺えることはいうまでもなく、従ってその重要性を増してくるのはおそらく藩政後期以降になるのではなかろうか。
 次に「三州測量図籍」に示されるこの往来の道筋について見てみると、地形的要因から、松任町から八田村(現松任市八田町)までと八田村から冬瓜町(現金沢市金石西一丁目)までのち二つに大別できる。前者が手取扇状地上を付近河川の流路方向の如くほぼ北に向かって進む道筋であるのに対して、後者は海岸まで幾重にも連なる安原海岸砂丘の後背地を選び若干迂回するようなかたちの道筋を取っているのである。加えて前者が各集落の居住地区を通っているのに対して、後者の場合はそれがないのも自然地形による制約上に起囚するものであるのかも知れない。
 また明治一五年頃の内容と考えられる『皇国地誌』では、この地域の主要道として「八田往来」という名称で前者が紹介されているのに対し、後者についてはその記載は無く代わりとして藩政期の浜往来(沿海路)のみを挙げ金石(旧宮腰)への道筋として紹介している。道幅はいずれも一間前後であった。
 やがてこの往来も明治二一年に、これまでの往環より内陸部を横断する金石往来(現松任宇ノ気線)が完成すると(『松任町史』)、主要道の座を奪われたようであり現在ではその詳細を確認することは極めて困難である

二 道の確定と環境の現状

 先述した「天保三年三州測量図籍」と「明治四二年仮製版二万分之一地図」をもとに、往時の道筋を推定を含めて辿ることにする。松任市東三番町の北端にある「大正通り」(大正二年建設)の交差点付近がこの往来の起点となっている。この交差点を東折するのが旧北国街道のルートであるが本往来ではこのまま北進する。中川一政記念美術館を左に見ながらJR北陸本線の線路を渡ると旭町(旧北町)の家並に至る。一三〇m程進んだところでJR西日本金沢支社松任工場(旧国鉄松任工場・昭和一〇年完成)に突き当たり、道は途切れている。工場の敷地は約五〇〇m北まで伸びており、西半分は相木町地内である。旧道は同町地内の東端を北進するものであったが、消滅している。工場の北には水田と相木団地が続くがこの間の旧道も痕跡を確認することはできなかった。宮永市町地内に入り、本集落に至るまでもこの状況は続く。かつては町内の中心を南北に通っていた旧道(『宮永市村耕地整理確定前図』による)も南半一三〇mは失われており、長丸家宅横から以北のみかろうじて残存しているにすぎない。道幅は三・五m~四mである。集落を抜けると水田が広がっており遠方に宮永町の集落が見える。未舗装ではあるが広い農道を直進して宮永集落の西南端に辿り着く。前田家宅の家角を右に折れ一間半程の小路を一七〇mほど進んだのち左折、再び北進する。集落を抜け、石川広域農道に至る。この辺りから北西にある一塚町(旧八田新屋村)までの逆S字型の緩やかな里道(「宮永村耕地整理確定前図」)は消滅しており、約八〇〇m分が空白となっている。北陸自動車道、旭工業地帯に抜けて一塚町集落の南西端に辿り着く。かつて八田新屋村と呼ばれたこの集落内の道幅は三m前後と狭く北北東に伸びている。近接する八田町集落内を過ぎれば、眼前に田圃が広がっている。「三州測量図籍」によれば、このあたりを分岐として北西の浜往来へ続く道と、北東方向に続く本往来の二筋が記入されている。前者の方は現在も八m幅の直線道路となって現存しているものの、後者はその姿を全くとどめておらず、区画された田圃の中に消滅している。八田中町地内通称シイリ付近で三叉路となっていたらしく(『旭郷土誌』)、その場所に建てられていた道標は現在、同町地内の経栄寺敷地内に現存する。この三叉路を過ぎて打木町の北東付近に至る道程一km余も先程と同じく消滅している。やむなく主要地方道二五号金沢・美川・小松線を通り下安原町(旧浜安原)に入る。
 同地内に入りしばらく進むと、左手(道路西側)に平行して土居と松林(砂防林)が集落まで延々と続いている。住民の話によれば、この土居から海岸までは高さ三m以上の砂丘が幾重にも連なっていたが、戦後の圃場整備により全て削平されという。また、この松林の間を往来として使っていたこともあるらしく、恐らく本往来の道筋に比定されうると考えられる。しかし当集落を過ぎたあたりからは全く往時の道筋がつかめないまま、専光寺町(浜村)の西側を通り佐寄森町を抜け、普正寺町の県民海浜公園に突き当たる。
 同公園内の野鳥園を抜けると金沢神経サナトリウムが北方の小高い丘の上に見えてくる。ふもとの家並はかつて普正寺の枝村で番屋と呼ばれていたところである。犀川の河岸はすぐ目の前に開け、対岸は旧冬瓜町である。両岸とも護岸工事をほどこしておりかつて渡舟が往来していた浜の様子は想像することはできない。

三 沿道の文化財

148 天明五年松任町絵図控

149 宮永ほじ川遺跡
 同町の南方に位置する。古墳時代初頭から一五世紀にかけての複合遺跡であるが、特に一三世紀後半~一四世紀が中心となっており、桁行九間クラスの総柱建物群を含む中世居館及び村落址が検出された。宮永郷を開発本領とした林氏庶流宮永氏の居館址と推定されている。

150 宮永八幡神社末社菅原神社本殿
 建築様式や彫刻の技法などに古いものがあり、明暦二年(一六五七)の社殿建立に伴う神鏡寄進状が現存することから、該期の建築と考えられている。

151 宮永八幡神社(豊勝宮)中世文書

152 雲嶽官蔵墓
 八田町中川家宅に現在設置されているが、元は同地内の交差点北東角にあった。江戸後期に活躍した同村出身力士を偲んで建てた碑であるという。側面には「左みやのこし道」「右かねざ己道」と刻まれており道標としても使われていた。「乙丑天八月立」から慶応元年(一八六五)のものと考えられる。

153 八田中町道標
 越前石の柱で、かつて同町の北西郊にあったもの。側面にはそれぞれ「東金沢道」「西松任道」と彫られており、三叉路に建てられていた。また正面には「南無法蓮華経」と彫り込みがあるが、現在移転されている同地内の日蓮宗経栄寺は明治一三年の開設であることからこの時期以降に造られたとおもわれる。                           (小中和也)
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