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加賀の道 第四章 宮腰往還 第一節 道の概要

第四章 宮腰往還

第一節 道の概要

〔宮腰往還の成立〕
 宮腰往還は元和二年(一六一六)に作られたもので、『新山田畔書』では「元和二年龍興左衛生門賀州ノ郡代方ノ儀被仰付、然ニ因テ諸代官此下知ニ従フ、……宮ノ腰海道筋今ノ道ヨリ川ノ方ニ在テ、九折ニナリ居トテ、極楽橋ノ上ヨリ目ノ下ニ見ル様ニ今枝内記重直思案ニテ、安江木町ノ西広岡ノ町端卜宮ノ腰入口ニ夜中篝火ヲ焼、其間四・五ケ所ニ又篝火ヲ立、標示ヲ指テ縄張究り道筋ヲ作ル」とある。『越登賀三州志』においては「宮腰往還の支路を廃して直道一條となし」として、新道建設の理由は同様であり、これは『三壷記』においても同じである。
 以上の史料からすると、従来の往還は「九折にて見苦し」いので真っ直ぐな道に作り直したということになるが、直線道路の必要性は「微妙公の宮腰道を玉泉院丸より直に見切らん為」(「今枝直方自記」稿本金沢市史)であり、政治的軍事的な理由によるものと考えてよいであろう。これは従来の道を補修し直線化したのではなく、新たに従来の往還の北側に新道を建設したものである(宮腰古道参)。
 前年の元和元年に廻国上使が来国しており、五月に往還道の「悪敷所為作候様可致候、宮腰より作候分、道作様を考、其格に可仕候」との達しが出され、続いて六月には「宮腰道殊之外麁相に有之旨相聞候……今少念に入為作可申候」(『改作所旧記』)との達しが出ている。宮腰往還の建設は、この期に行われた城下の寺町の形成や、野田山道での松の植栽などと共に、城下整備の進展の中に位置づけられるものであろうが、元和元年の廻国上使来国の節に往還整備の契機があったことも指摘しておく。

〔往還の道程〕
この宮腰往還は絵図等にも見られるように、金沢・宮腰間の集落を結ぶ道ではなく、見事なまでに集落を縫って一直線に伸びる計画道路である。その道程は次の通である。

金沢町はなより長田村前迄-五町、
長田村より二口村前迄-六町、
二口村より若宮村前迄-二町三〇間、
若宮村より北村前迄-二町二〇間、
北村より藤江村前迄-六町三〇間、
藤江村より松村前迄-九町一〇間、
松村より畝田村前迄-二町、
畝田村より寺中村迄-七町二五間、
寺中村より宮腰迄-九町五間。
〆一里十四丁(但三十六町一里)
(正保三年『宮腰道筋村々道のりノ御帳』)
 ここでは金沢町端より宮腰町迄一里一四町と記され、翌正保四年(一六四七)の「加越能三州道程記」では「金沢町より宮腰町迄、道幅二間、二里」と記される。正保三年の「金沢端より」は筋違町辺りからの距離、同四年の「金沢町より」は武蔵ケ辻辺りからの距離かとも考えられる。金沢町端の概念も町地の伸長により、六枚・筋違町辺りから、時代と共に広岡・長田町、長田村辺リヘと変化しているものと考えられよう。因みに文政三年(一八二〇)の「三州測量図籍」では、武蔵ケ辻より宮腰口町端まで一五町一九間、宮腰往還は長田村を基点として宮腰町まで一里八町四三間としている。

〔往還の管理〕
 建設に着手した元和元年(一六一六)の翌二年に加越能三ケ国の伝馬役が定められるが、宮腰町は北国街道の各宿と同等の本役を課せられている(「国初遺文」)。これは北国街道の宿場以外では宮腰のみであり、その位置の重要性が窺える。
 以下、宮腰往還関係記事を挙げると、寛文元年(一六六一)には「宮腰道作り可申旨、御算用場より被仰渡候」、同六年(一六六六)には「深雪に付、往還馬足立不申候間、金沢より宮腰・鶴来迄、……荷付馬通り候様に被仰渡に付、可被得其意候」、天和二年(一六八二)には「御郡方狼多就令徘徊、所々に御異風被遺為打候間、加賀郡者大樋近辺に一ケ所・石川郡は宮腰口一ケ所、御供田近辺に一ケ所、右三ケ所に狼付餌指置、ねらひ被申筈に候」(以上「改作所旧記」)。貞享三年(一六八六)と正徳三年(一七一三)には、寺中の佐那武明神社(大野湊神社)と「宮腰大道」を結ぶ道の幅について、「道幅二間ニ相極」とされ(大野湊神社文書)、同年に「往還道井宮腰道・能州道並松之儀、連々根返り又者立枯に罷成候所、別而去秋大風に而大分根返り仕、並松少々に罷成」となり、苗松の植え付けと玉縁より六尺以上にするよう、往還筋村々に申し付けている(「改作所旧記」)。
 宮腰往還に限ったことではないが、往還の維持のため、積雪時の雪割り作業、並松の管理・維持にと努めている。管理に係る経費面を、天保一〇年(一八三九)の往還地盛普請の予算によって見ると、金沢より宮腰までの道のりを一里半、道幅を三間、地盛高さを一尺とすると、犀川河原より運ぶ小砂利は二四三〇石必要となり、これに要する人足は六万五六一〇人、これに道造りの鍬取人足六五六一人を加え、延べ七万二一七三人の人足を必要とし、その経費は一人銀一匁七分として、一二二貫六九〇目となっている(「往還地盛普講方仕法帳」中山家文書)。

〔宮腰古道〕
 宮腰往還の旧道については、『三壷記』では「往古よりの往還は、今の三社古道より、犀川河縁通り寺中村へ出で宮腰に至る道、即ちいにしへの往来なりとぞ」とし、『金沢古蹟志』では「昔は密厳前の高厳寺の境内地辺より、長田・二口などの村地を経て、宮腰への往還道筋なりし」とあり、旧道は新道の西側の犀川に沿って宮腰に至っていたとする。基点については、三社古道あるいは密厳前としている。
 これに対して『金石町誌』では「古道往来は金沢市古道町に起り、二口・桜田・示野等を経て専光寺に至る」とする。これは旧道が新道に平行して宮腰に至っていたものではなく、宮腰の西に位置する専光寺を経由して宮腰にいたる往来であったとし、金沢と浜往来を結ぶ道であったことを物語っている。
 元禄の国絵図などについて記した「加越能御絵図覚書」には、「古道口」として次のようなルートが記されている。



 このルートは、古道(ふるみち)町口からのものであり、宮腰往還以前の古道のルートを示すものではないと考えられるが、二ツ寺村辺り迄はほぼ同ルートを利用しているものと推定され、宮腰古道のルートが伺える。古道では二ツ寺村辺りより寺中村を経て宮腰に出るコースがあったものと思われる。古道自体は犀川に沿うようにして出来た道であったものであろうが、犀川の流路の変化が旧態の復元を困難なものとしている。
 宮腰往還が出来た後の古道は、二ツ寺村から犀川の左岸に渡り(二ツ寺村・赤土村は犀川の右岸に位置する村であったが、嘉永二年(一八四九)犀川の付け替えによって左岸に位置が変わる)、海岸線の本吉往来や松任往来とを結ぶ、別機能をもった別ルートとして生き残ったものであろう。

〔明治期の宮腰往還〕
 宮腰町は慶応二年(一八六六)に隣の大野町と合併し、金石町と名称を変更したことにより、往還の名も「金石街道」と称されることになる。
 明治期の往還の状況を『皇国地誌』により見ていくと、金沢の尾張町に建つ道路元標より金石町までの距離は一里三四町一八間五尺と記され、金石往還へは下堤町北端から西北に入り、安江町・白銀町・英町・六枚町・折違町・中橋町・長田町迄の一四町四〇間を経て金石往還に至る。この間の道幅は広い所で三間二尺、狭い所で二間五尺余とある。
 明治二二年の地図で見ると、金沢市街と接する長田村は市街地に呑み込まれた形となっているが、長田村を過ぎた所からは往還の両側は松並木となり、北村近辺に果樹林がみられるほかは水田の中を一直線に金石町に伸びている。
 この間の道幅は『皇国地誌』によれば長田村より藤江村までは幅四間・道敷五間藤江村より寺中村までは幅四間・道敷五間三尺、寺中村寄り金石町までは幅四間・道敷六間と記され、金石往還に至る金沢市中の道幅よりも広いことになる。
 この道幅については先に記した江戸期の記録においても、また明治二九年に金沢~金石間の鉄道敷設の計画において、金石街道は軌道条件が道幅三間以上の敷地を必要としているのに対し、大半が二間以上はないため大幅な拡張工事が必要であるとされている(北国新聞)。これら『皇国地誌』作成前後の資料とも金石往還の道幅は二~三間としており、『皇国地誌』に記された道幅には疑問が残る。
 なお、先の鉄道建設に際して、道幅の拡張に伴い藤江の茶屋の立ち退きが検討されており、街道の茶屋が明治二〇年代後半にも健在であったことが知れる。また、北陸線の開通と時をおなじくして、明治三一年に金石~長田町間に金石馬車鉄道が開通し、大正三年には電化され、同九年には路線が長田町より中橋町まで延長された(昭和四六年廃止)。

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加賀の道 第三章 第二節 小原越

第二節 小原越

一 道の概要
 小原越とは、金沢大樋町から本街道を北へ約三kmの吉原村(JR森本駅前)で東へ分岐し、宮野村(以下、県境までの地名はすべて現金沢市)から松根城跡前の峠を越えて砺波郡北西部(現小矢部市)にいたる脇道である。小原という地名は近世の村名に見えないが、元禄一二年(一六九九)三月の十村書上(『改作所旧記』中編二二二頁)に「吉原村より越中え越申小原谷道、松根村の城山にて田近道と一所に罷成」とあるように、小原谷は吉原村より東、松根峠に至る谷あいの総称であった。
 小原谷の道は右の『改作所旧記』が「右の道、宮野村領にて二筋に罷成、加賀郡古屋谷村領通り、越中高窪村え罷越申候在郷道御座候」と述べているとおり、宮野村の戸保木という所で二つに分岐していた。すなわち、尾根筋を伝って松根峠を越える道と、谷筋を高窪村(現福光町)にいたる道である。「三州測量図籍」は前者を「薬師道・松根峠砺波郡境迄道筋、但、小原越と云」と記し、後者は「薬師道筋・トボケヨリ東原等えの道筋」として、特定の名称をつけていない。『加能越州地理志稿』も前者を「小原越、一名松根越」(八頁)として里程を記している。正保四年(一六四七)の「三州道程記」(写、加越能文庫)も前者を「原道」としている。
 然るに、『加能郷土辞彙』は「小原越、東原脇原から越中の国界に至り、西砺波郡高窪に通ずる」と後者の谷筋を指している。これは明治以後の「小原谷往来」と混同した誤りであろう。なお史料によっては「小原道」と表記する場合もあるが、いずれも松根峠越の尾根筋道を指しており、小原越と同義語と見て間違いはない。
 小原越の由来について、花山法皇が砺波郡安居寺へ遣わした勅使の小原左衛門清原ノ節光が通ったという伝承がある(県立図書館蔵「北国巡杖記」)。また、沿道住民がこの道を「ソラ(上)街道」と今日も呼んでいることで、右の上使に由来するという説がある。しかし、『亀の尾の記』はこの伝承について「妄想尤も信ずるに足らず」(巻九)と退けたように、根拠となる有力な史料は見られない。小原越は小原谷からの峠道という素朴な呼称であろう。ソラは下に対する上の方言で、小原越の道筋が沿道のすべての集落の上の尾根を通っている特徴から、地元住民が「ソラ街道」と名づけたと思われる。
 小原越の起源については、その要所を占める松根城が、寿永二年(一一八三)源義仲が布陣したと伝え(『三州志』六〇五頁)、確実な文書の上では康安二年(一三六二)二月の桃井・足利の攻防をはじめ、一向一揆の「小原之奥松根山之城」(長家譜)など、多くの戦記に倶利伽羅峠とともに登場し、中世から加賀~越中の重要な交通路であったことを示している。
 しかし、近世に入ると同時に往還(本街道)に対する米や商品の脇道として問題となってきた。承応三年(一六五四)三月、加賀藩は津幡宿の定書(「加州郡方旧記」)に「商人荷物、脇道不付通、宿仕(次)に可仕事」「脇道通候商人荷物、見付候ハゝ可押置事」と、荷駄はすべて宿馬を使うこと、脇道を通る荷物は差押さえると決めた。さらに明暦二年(一六五六)五月には「侍・町人金沢えの届米、百姓馬に付通候義無用候、竹橋・津幡両宿の馬を以、金沢え可相届」と、町蔵の引米・払米を農耕馬で金沢へ付通す稼ぎを禁じた(『加賀藩史料』第三編四六三頁)。
 ところが、同四年六月、竹橋・津幡両宿から「其後、脇道小原筋を越中・加州手寄の村々より人足を出、往還同前に作、当年に至り在郷馬ことことく余米登申に付、津幡・竹橋えは一円参り不申、はしはしたへ申躰に罷成申候」という訴えがだされた(新田家文書「竹橋宿御仕法願一件留」)。すなわち、砺波郡と河北郡から人足を出して、小原越を本街道のように造成して、年貢を納めた後の余剰米を農耕馬で金沢へ運び、宿は大打撃を受けたという。同年五月には河北郡十村連名で砺波郡十村連名宛に、「若、後日、一疋にても御印を背罷通候ハゝ、荷物押置可申旨に御座候」という回状を出している(加越能文庫「加州郡方旧記」)。
 宿側では小原越に加えて、二俣越も間道として諸荷物通行を禁止するよう訴えたが、明暦四年(一六五八)六月、算用場奉行の伊藤内膳書付に、「城端より二俣越候儀ハ有来候往還ニ候間、城端手寄の者は二俣越可相通候」と公認する一方、小原越は「石動・高岡近辺の米共小原越参り候二付」「越中より登り米、侍井商人小原越不通様」と、小原越と二俣越とを区別した(同「二俣道往来一巻」)。にもかかわらず、享保一六年(一七三一)一〇月にいたっても「間道の内、二俣道と申口より金沢えの登米、夥敷付通候間、早速押候御紙面を」と加州郡奉行が訴えている。藩では詮議を重ねた末、翌年四月に越中川上郷(砺波郡南部)の米や諸荷物の二俣越は「只今迄の通、往来為仕候様」と公認し、小原越については「弥猥りに無之様」と荷物差押えの裁定を下した(同)。
 しかし、それ以降も小原越はかえって増大し、宿や河北郡十村から農耕馬による小原越指差押え願が再三出された。享保一六年九月の訴えによれば、「毎日弐三百駄宛、連立附越候に付、両宿の者共手に合不申候」(同)と、宿側の力では押さえきれない程の増加ぶりであった。(毎日二~三百駄という数は、二俣越を含むとしてもやや誇張と思われる)。
 「手に合わない」という例に、宝永八年(一七一一)二月、八講田・五郎丸村・内山村の馬四六疋で四二石の米をつけて、小原谷の河原市村肝煎清兵衛・宮野村勘兵衛方に預け、夜中に番所を避けて金沢へ運んだ米を、津幡・竹橋の馬借持たちが取り押えた。ところが引き取り先の給人(藩士)の家来が「沙汰の限りと被申、脇指に手を懸、おいちらし被申候」という一件がある(竹橋宿御仕法願一件留)。
 小原越が押さえきれなかった要因の一つに本街道の半数に近い距離がある。前出『三州地理志稿』によると、小原越は金沢大樋町から五郎丸村まで計三里三〇町五七間、本街道は同じ大樋町から埴生村まで計六里二一町五四間である。加えて本街道では、津幡・竹橋の宿馬を使わない場合でも、宿駅で上前銭・庭口銭を徴収された。
 その上に、米の運送をより安くより早く、と促す背景があった。金沢城下町の戸数は、寛文四年(一六六四)の九八六八軒が、安政四年(一八五七)には二万三〇四一軒に増加し(田中喜男氏『幕藩制都市の研究』二九八頁)、米の需要が拡大した。一方、砺波郡の新田開発は正保三年(一六四六)と比べて、慶応元年(一八六七)の新田増加分は七万四〇六九石、二六、八%も増えている(『富山県史』通史編Ⅲ一一三一頁)。
 右のような矛盾のため、藩の脇道政策に早くからの動揺が散見される。寛文一〇年(一六七〇)三月、越中末友村より小原越による堂形御蔵(金沢城下)へ、年貢米を一日に一〇~一二疋宛運ばせ、「よわき馬指除、達者成馬共替々可申付候」などと藩の役人が指示している(『改作所旧記』上編二一一頁)。また、「万治元年十月朔日御夜話に、明日より相通可申旨、被仰出候」と砺波郡十村二名の留帳に記され、領主(前田綱紀)の指示によって宝永八年まで小原越を使っていたという。この留書については砺波郡・射水郡御郡奉行も、馬口銭を出せば、牽売米の場合は許されているから、「越中百姓共の義も手寄り次第、引売り小原道付通候義、不苦品々相見え申候」と、小原越が認められていたと証言している(二俣道往来一巻)。
 小原越は「米に不限、油菜其外の荷物も脇道を差通」(新田家文書「竹橋宿御仕法願一件留、宝永八年口上書」)と、米以外の商品抜け荷も問題にされた。しかし、以下に述べるようにほとんどは牽売米の道、つまり「米の路」であったといえよう。
 牽売米とは、倶利伽羅村・森村など河北郡の本街道周辺の村々が、今石動町の町蔵の払い米・引き米や砺波郡の村々の作徳米を金沢へ運ぶ稼ぎで、「河北牽売」ともいう(倶利伽羅、俵久兵衛家文書)。元禄一六年(一七〇三)二月、藩は「牽売馬米売買の儀、最前被仰越候通、弥向後現銀に買申様に百姓共え御申渡候」と、すでに公認していた(『改作所旧記』中三一五頁)。
 しかし、牽売馬稼ぎは文化元年(一八〇四)には、「砺波郡片山入り村々」つまり医王山々系を背にする村々の広がり、河北牽売の村々から「小原谷道等、女馬相止候様、御詮議御願申上度」と訴えている(新田家文書「牽売馬稼様子書上」)。女馬とは砺波郡の農耕馬による脇道からの牽売稼ぎことで、馬継ぎを専業とする宿の馬借や、運送を半ば専業にする河北牽売の立場をおびやかし、馬方たちから「越中女馬」と呼ばれていた。
 牽売稼ぎをした地域を見よう。河北郡では文化八年に(一八一一)三〇ヶ村、推定稼ぎ高五一一五石の記録がある(新田家文書「村々諸産物相調理書上申帳」)。そのうち、北横根村・南横根村・相窪村・朝日畑村・常徳村などは本街道よりは小原越・田近越に近く、この村々は脇道による稼ぎであろう。砺波郡では嘉永六年(一八五六)の村鑑帳によれば表2の二九ヶ村である。他に二俣越にも通じる村々が多く、当初は両方の道を使う稼ぎでも「川上米の分、手寄次第、小原道相通り候得ても、紛敷族相聞不申候」と容認していた(二俣道往来一巻)。
 天保三年(一八三二)二月、藩は小原越からの農耕馬による金沢登せ米の必要を認め、「小原道稼米九斗何枚」と記した中折紙札を改番所へ出すことを条件に、表1の試案を発表した。これによれば小原越は九七〇六石まで無口銭で通し、牽売稼ぎの村々から冥加金を一石に二五文ずつ上納とした。しかし、同六年には一石に四二文ずつの口銭に変わっている。また、同年に石黒組二〇ヶ村・蟹谷組一四ヶ村を二俣越の稼ぎのみにして小原越を禁じた。同一三には高窪村など一七ヶ村は焼印の木礼を所持すれば、両道いずれかを通行できることにする、などと変転した。
 ところで、先の文書で「見付候ハゝ押置事」などという抜荷の監視は、前述の宝永八年の一件のように宿からの出向であった。しかし、浜往来のような現地の村人による請負もあったと思われる。天保一三年一〇月の計画を見ると、吉原村領に改番所を建て、津幡・竹橋・今石動の三宿から番人が詰め、他に「東原脇原村領一ノ瀬越辺」「堂坂より直江坂辺」「古屋谷直江谷辺」「薬師より神谷内道辺」~田近道~「宝坂越」「高窪領惣平辺」「大樋町家借請昼夜致張番」へ巡回して無札の稼ぎ米を取締まることにした(新国家文書「小原越稼米改番所等仕法御請帳」)。
 なお、先の試案に馬一疋あたり二三石を割り当てる基礎として、「馬・歩荷共九斗付の図を以」とある。これによれば、馬背だけでなく、村人もボッカ(背負い荷)で金沢まで米を運んだようである。片道でも四里以上の労苦がしのばれる。

二 道の確定と環境の現状
 JR森本駅前の本街道=国道八号線をわずかに北へ進むと、東側に道幅三・五m前後の目立たない小路がある。これが小原越の起点・終点となる。近世は吉原村領であったが、集落は南側の台地に鎮座する郡家神社の周辺にあり、沿道には人家はなかった。明治四二年の二万分地図でも道は水田地帯から松並木の本街道に垂直に接続している。改番所跡はその伝承も遺構も確認できない。
 道はバイパスが横切る地点で北側へL字を逆にした形に折れ曲がった跡が明治初期の地籍図に見られ、水田になった跡も「公道あと」と呼ばれる堅い地盤になっていた(吉本澄与治氏)。明治期にほぼ直線に改修され、塚崎集落の北側を通り森本川の近くで国道三〇四号線に合流する。
 国道は古道を約五・五mに拡幅しているが、さらに両側に歩道を設ける作業が進んでいる。森本川を渡ると北側に、堅田城跡の丘陵がその全容を見せている。県道が接続する堅田交差点で、古道が南側にはずれて残り、高速道路を過ぎた辺りで国道をS字状に横切って合流する。
 不動寺と薬師という地名の間、森本川右岸の北田橋々づめに河原市用水の取水口がある。取水口は下流の河原市村領から上流に変わり、近世末期に現地に固定した。鉄筋コンクリートに改修されているが、位置や水量は近世のままである。ここから約四〇〇m南の丘陵に、中世日蓮宗の古刹である本興寺がある。水田地帯を蛇行する森本川左岸の河岸段丘に梨木城跡、その約一五〇〇m南に上野館跡がある。
 鳴瀬の「番所跡」を過ぎて森本川に合流する切山川の蹴落橋を渡ると、国道三五九号線を結ぶ宮野交差点がある。この地点が尾根筋へ登る道と丘陵の麓を直進する道の追分であった。「三州測量図籍」にトボケと記入した分岐点で、前者の尾根道が「ソラ街道」とも呼ぶ小原越、後者は丘陵を掘り割って国道三〇四号線の続きになっている。享保三年(一七一八)以前に設置された高札場はこの地点と思われるが伝承はない。尾根への登り口は、昭和一〇年代に交差点から約一〇〇m進んだ国道の北側につけかえられ、古道は大橋博輝家の東側まで消滅した。
 登り口の戸保木集落を過ぎた宮野保育所前の広場は、人馬が足ごしらえを改めた「くつかけ場跡」である。ここから一〇〇m余登った、高速道路の掘り割りの上の橋を渡る。これより雑木林の間のゆるやかな坂は、約二・五mのコンクリート舗装の林道になっている。約一四〇〇m上りつめた沿道の北側の、半自然林に覆われた丘陵が切山城跡である。最高峰の本丸跡の麓辺りから東の崖ぎわまで杉の造林地になっている。
 本丸跡を迂回して深い崖にのぞむトノムネと呼ぶ峠は、「塔の峰」「殿の棟」などの文字を当てるといわれるように城跡の東端であろう。ここから下の土橋という谷間までの約二五〇mの急坂は、オトシ(40)とぃぅ小原越最大の難所であった。掘り割った道跡は残っているが、路面が荒れ放題になっていて通行できない。高坂からの谷筋の新道と蹴落谷が接する土橋で旧道は合流するが、約一五〇mでまた北側のガッペ(岸壁)を約一〇〇m登らねばならなかった。ここもナンド坂と呼ぶ急坂で、連続する難所にさぞ人馬はあえいだことであろう。掘り割った道跡は残っているが杉などが密生していて通行できない。
 ナンド坂の上は平坦地の二・二m~三・三m幅舗装の道で、沿道に桐畑などが開けている。しかし、谷あいからの新道に接続する前に、古道は舗装された道より上の尾根筋を通ったらしいが道跡は消滅している(新道は堀切集落の上の平坦地へ向かうが、古道は正面のイシナ坂という尾根伝いを登った。イシナは小石のことで、小原越で唯一の砂利層が露出していた所である。このイシナ坂も一一〇m余は雑木林に覆われて通行できない。
 イシナ坂の一部は、金沢市営造林団地の作業道に使われている。杉林の中の水道タンクを過ぎると尾根の頂部へ登る。しかし、ここから堀切集落の東方のバンドコという平坦地に下りるまで、約五〇〇mの間の道跡は確認できない。バンドコは荷駄の改番所跡といわれるが、具体的な伝承は聞かれない。これから新道を行くが、西側に古道跡の一部が見られる。新道を一〇〇m余進むと東の尾根へ上る古道が接続する。道幅二m~三・五mの未舗装のゆるやかな坂道は、道筋は古道の通りであるが、一部は車が通れるように掘り割って改修している。約四〇〇m上れば南側に清水谷への降り口があり、付近に鳥構えという渡り鳥を捕獲した鳴瀬山がある。
 清水谷口から道は北東に向きを変える。坂を上りきった後のドンバミネという七~八〇〇mの間はなだらかな尾根道で、沿道は雑木林の間に柿・クルミの畑が開かれている。快晴なら思わず馬子唄を口ずさんだ区間であろう。西側の曲子原への降り口を過ぎた辺りに「屋敷跡」という地名がある。東側の広場で周辺の集落から若者が集まって相撲大会が催されたというが近世の行事であったかは不明である。
 竹又からの道が合流する三叉路の地点は、明治初期に六集落を校区とした貫成小学校の跡地である。これより道の東~南側斜面にゴルフ場がひろがる。北側の土子原・今泉への降り口を過ぎると、道幅三・八里前後のアスファルト舗装のゆるやかな坂を下る。北側の畑と水田が開けた所に、寛文一〇年(一六七〇)の村御印に「上松根村」と表記された松根集落への枝道がある。三叉路の近くで朝市が開かれている。ここから松根城跡へ向かって迂回する北側に新左衛門茶屋跡がある。城跡前までの上り坂は南側を削って拡幅し、舗装幅三・八mであるが、迂回する内側の二~三mが古道跡である。
 城跡までの沿道に寺跡があったと伝えるが確認できない。北側に畑が開け、峠近くの谷に清水が出る所がある。城跡前への登り口を仏坂といい、現在の登り口より一〇〇m余下った地点から、ゴルフ場への道と馬場跡との間の雑木林に道跡がある。やや上った城跡の間口に「小原道跡」と刻んだ石碑が立っている。石碑の前で東の鞍部へ上る道と、反対側の駐車場への道に別かれる。駐車場から土塁を利用した道で迂回すると本丸へ上る階段道と、そのまま下って中尾などの田近道にいたる道に分かれる、石碑の横を北へ直進する道は、近年造成されたもので、東へ迂回して小原越に通じる。
 さて、小原越は石碑前の右手へ登る。道は雑木林に覆われ通行困難であるが、七~八m上れば峠の鞍部に達する。この鞍部が松根峠の頂点で、昭和初期までは木製の道路元標が建てられていた所である(俵与吉氏)。すなわち国境・郡境にあたり、以後は砺波郡(現小矢部市)に入る。峠から県境の尾根を南に下りる高窪~福光への道跡は残っているが、雑木林が生い茂っている。
 峠から北東へ下りる道を、元禄一二年(一六九九)三月の河北郡十村書上は「松根村より越中末友村え出申在郷道御座候、牛馬通申候、道の名は無御座候」(『改作所旧記』中二二二頁)と述べているが、小原越の道であることはいうまでもない。峠を数十m下りると、迂回してきた道幅約四mの新道に出る。新道と古道とがずれている所では古道は雑木林にかくれているが、尾根筋をたどれば道跡が見られる。途中、西側に内山、東側に人母・臼谷への枝道があり、ゆるやかな未舗装の尾根道を下れば、国道三五九号線に平行して砺波平野にいたる。

三 沿道の文化財

30 郡家神社
 金沢市吉原町チ五〇。本街道に連結する直前の古道南側の台地に鎮座。「延喜式」記載の郡家神社といわれる。近世は山王社・天神薬師ともいわれた(『加賀志徴』下編四八九頁)が、安政五年作成の社旗に郡家神社とあるという(『河北郡誌』五七三頁』)。明治初期に少名彦神社、大正九年二月に郡家神社とした。移遷に諸説があるものの交通要所の古社寺の一つである。境内にケヤキの巨樹がある。

31 堅田城跡
 金沢市堅田町、小原道の北側の丘陵。寿永二年(一一八三)五月の木宮義仲軍の陣跡(『三州志」二四・六〇六頁)。しかし、通構から永正~天文年間(一五〇五~一五五五)に、上杉謙信軍が自然地形を活かして郭を梯階状と渦状に配した城跡と推定されている(金沢市教育委員会「金沢の古城跡」一六~一九頁)。標高一一三・三m、東西五~七〇〇m、南北三~五〇〇m。

32 河原市用水取水口
 金沢市薬師町。小原道から七〇m南の北田橋ぎわ森本川右岸。正徳二年(一七一二)「十村衆相談の上」、岩出村にあった取水口を上流の河原市村領に上げ、津幡川にいたる用水路に大改修をした(加越能文庫「潟端新村旧事」)。以後、取水口をさらに上流の河原市村領に上げ、津幡川にいたる用水路に大改修をした(加越能文庫「潟端新村旧事」)。以降、取水口をさらに上流のゴジャガ淵に替え、さらに森本川の流路の変化によってかわり、近世末期に現地に固定したといわれる。昭和四〇年代にコンクリートの水門に改修した。取水幅約一〇m・用水路幅約三m。

33 本奥寺寺法書
 金沢市薬師町ロ七四、小原道の南方丘陵中腹に位置する本興寺蔵。戦国期の日蓮宗檀における本興寺の地位を示す法度。永正九年(一五一二)の「成敗之条々」は縦二五cm、横六三cm。元亀三年(一五七二)「定追加条々」は縦二九cm、横五五cm、ともに金沢市指定文化財。

34 梨木城跡
 金沢市梨木町。小原道の南側、森本川中流左岸の河岸段丘に位置する。大納言屋敷ともいう。『三州志』に「一揆の掻上屋敷か」(六〇六頁)とあるように、一向一揆の時代の構築と見られる。城主は奥近江守政堯とも沖近江守ともいう(加越能文庫「村名出来帳」)。森本川の河川改修で分断され原形を失っている。水田高約一〇m、台上約七〇m四方。

35 上野館
 金沢市薬師町。梨木城跡約一五〇m南丘陵、本興寺の約五〇〇m東に位置する。梨木城の上野某の屋敷跡と伝える他に記録はない。水田比高五m、東西四〇~八〇m。

37 高札場
 享保三二年(一七一八)以前の「御算用場覚書」(加越能文庫)の御高札場と貞享四年(一六八七)二月の捨馬高札場の記録(「改作所旧記」中編九〇頁に「宮野村」)がある。小原越と東原脇原への追分であった金沢市宮野町戸保木の周辺と見られるが伝承は聞かれない。

38 くつかけ場
 金沢市宮野町ル一七~一。小原越の人馬が足ごしらえを改めた所で、「くつ」は草鞋のこと。現在、一部は保育所の送り迎えの母親たちの駐車場になっている。ここから一〇〇m余上がった高速道路付近ともいわれる。

39 切山城跡
 金沢市桐山町対岸の山地の森本川と切山川の間、東西約八〇〇m、南北約八〇mの半自然林の峰。小原越は最高峰のシロノコシの南側を迂回してオトシの急坂となる。『三州志』は「小原路の際也。古城記に向山砦と云ふ是か。不破彦三居たりと云ふ」(六〇六頁)と記し、天正一二年(一五八四)、朝日城の佐々成政軍と対した前田軍の居城と見られる。標高一四〇mの本丸は約三〇m四方の平坦地、周囲に土塁・空堀・郭などの遺構がある。

41 イシナ坂
 金沢市堀切町南方の尾根へ登る約一〇〇mの坂道。イシナは小石のことで小原越の周辺では唯一の砂利層が露出していた。周辺の村人が工事用によく採取したが、小石を道の舗装に使う習慣はなかったようである。『蟹谷郷遊記』に『左堀切・曲子原、右為宮野松山、下堀切石奈坂、四百廿武士為坦路」と記述された所(『近郊遊記』五九頁)。古道は雑木林に覆われ地層も見られない。

44 貫成小学校跡
 金沢市竹又町エ二・土子原町ワ九。尾根筋の平坦地で小原越と竹又道が合流する。明治九年(一八七六)五月から同三六年六月までの校名は一貫しないが、土子原・松根・曲子原・堀切・竹文・今泉の六集落を校区とした学校跡(「土子原小学校沿革誌」)。明治三年二月の松根村「村方人足帳」(松根区長箪笥文書)に「小学校ヤニフキ人足」という、学制令発布前に学校を準備した注目すべき記入とともに、小原越周辺村落の教育熱を示す文化財である。敷地の一辺三〇m余。

45 新左衛門茶屋跡
 金沢市松根町の南上。小原越が松根峠へ向かって迂回する北側沿道に位置する。新左衛門家は長享年代(一四八七~)から同地に居住していたが、大正元年に集落内へ移住したという(俵与作氏)。竹林になった跡地に良質の水が出た井戸跡がある。間口十数m

46 松根城跡
 金沢市松根町の北東の山上、石川・富山県境に位置し、小原越の峠に接する。寿永二年(一一八三)五月の木曾義仲軍布陣(『三州志』六〇五頁)をはじめ、康安二年(一三六二)二月と応安二年(一三六九)九月・同四年八月の桃井・足利軍の攻防(二宮文書)、長享二年(一四八八)五月と天文一九(一五五〇)五月の一向一揆(官知論・長家譜)、天正八年(一五八○)三月の柴田勝家軍(北陸七国誌)、同一二~三年の佐々・前田軍の攻防(『三州』『三壷聞書』)に使われた実戦的な中世山城の典型(『金沢市の指定文化財』五七頁)で、加賀・越中が一望できる要衝であった。遺構はほとんど現存しているが、杉の造林で近年は遺構の視察や眺望が困難になった。標高二七〇~三〇八m、東西約一〇〇m、南北約二三〇m。金沢市指定文化財。

47 松根峠と石碑
 松根城跡の南郭に接した、標高約三〇〇mの小原越の頂点。近世は内山峠ともいった。県境にあたり木製の道路元標が昭和初期まで立っていた。松根峠の鞍部でトウバ(塔娑力)と呼んでいた所。現在は草木がしげり通行困難である。七~八m下った城跡の門口跡の手前に石碑がある。石碑は昭和五二年九月、小矢部市によって建てられ、松本正雄市長(当時)の揮毫で「小原道跡」と刻まれている。高さ八〇cm、正面約六〇cm、厚さ一二cm。周辺に中尾・内山・高窪への枝道が集まっていた。                       (杉本晴介)

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加賀の道 第三章 越中と結ぶ道 第一節

第三章 越中と結ぶ道

第一節 田近越

一 道の概要
 田近越とは、本街道の北森本村(現金沢市)と今町村(同)の間から、東側の丘陵を尾根伝いに進み、朝日山城跡ぎわを迂回して材木川の谷を渡り、一乗寺城跡のある枡山の尾根(以下「枡山峠」とする)を越えて、砺波郡北西部(現小矢部市)にいたる脇道である。この道筋は「三州測量図籍」『三州地理志稿』(八頁)ともに一致し、二つの集落を除きすべて集落から外れた尾根道を通過する。
 田近越の由来について、『亀の尾の記』は「此辺をすべて田近の郷といふ。諸史に於て見る事なけれども、古郷の名と思はるゝなり。今此社家を田近何がしといひ、又此山より越中へ越す道あり。これを田近越といふ」(九九頁)といい、『加賀志徴』も、田近山八幡宮相殿の波自加弥神社(金沢市八幡町)の支配地域であった、という略縁起を引用している(下編四六〇頁)。
 中世の田近越は、道筋の要衝に一乗寺城・朝日山城が登場する。応安二年(一三六九)九月、南朝方の越中国桃井直和軍が枡山峠の一乗寺城に籠もって、足利軍の攻撃を受け(尊敬閣文庫「得田章房軍忠状」)、また、朝日山城は、天正元年(一五七三)八月、一向一揆が拠って上杉謙信軍と戦い(『石川県の地名』五五五頁)、同一二年、一乗寺城とともに佐々・前田の激戦場になった(加越能文庫「末森記」・『三州記』五三七頁)。 一方、沿道の相窪村、横根村(ともに現津幡町)にあった乗光寺は、応仁の頃(一四六九~七六)蓮如が一時滞在したといわれ、田近越を通じて小矢部方面への教線を伸ばし、天和六年(一六二〇)以降、今石動(現小矢部市八和町)へ移転している(「天文日記」天文二一年一二月一五日条など)。
 しかし、近世の田近越は、一般に全体を通過した道とはいい難い。これについては、元禄一二年(一八九九)三月の十村書上(『改作所旧記』中編二二二頁』に、「今町村の際より南千石村。今泉村の間へ罷出、松根村山を通り、越中末友村へ罷出申在郷道御座候。田近越と申候。牛馬通り申候」と述べている。すなわち、田近越は松根峠で小原越と合流して砺波郡北西部に達し、逆に枡山峠からの田近越が、小原越に路線を移して金沢へ向かうこともあった。枡山峠を越え田近の里を経由して金沢城下町へ達すれば、小原越に比べて距離に大きな無駄があったからである。『三州地理志稿』で確かめると、越中五郎丸村から枡山峠越えで今町村南まで三里二三町一三間、これに金沢大樋町までの距離を加えると六里近くになる。これに対して、同じ起点・終点で小原越に移れば三里三〇町余となるから、当然、金沢への人馬は小原越を選んだ。
 近世の田近越での稼ぎを見よう。今石動町の町蔵払い米や、砺波郡に増加してきた作徳米を金沢へ運ぶ牽売馬稼ぎは、河北郡の本街道沿いの村々から、砺波郡の村々にひろがり、農耕馬での小原越が問題になった(第二節の『小原越の概要』参照)。文化八年(一八一一)の十村書上(新国家文書「村々諸産物相調理書上申帳」)によると、河北郡の牽売稼ぎをした村は三〇ヶ村、ほとんど本街道沿いにある村で、竹橋・津幡の宿に口銭を納めて付通した。しかし、その中で田近越に近い表1の上六ヶ村は田近~小原越を利用したと思われる。
 蚕まゆは松根峠から高窪村(現福光町)への尾根道を下り、福光町への荷歩が多かったといわれる。しかし、蚕まゆ稼ぎの実態は明らかでなく、今後の課題である。

二 道の確定と環境の現状

 本街道の松並木が残る北森本村と今町村の集落の中間に、東の丘陵へ向かう田近越が接続する。往時はまったく人家のない水田地帯であったが、近年、住宅が点在している。道幅五・五mに拡幅してあるが、JR鉄道踏切の幅三mが古道の幅であろう。丘陵までの約四〇〇mの間にJR北陸本線・国道八号線・河原市用水路が横切る。北方約一kmに波自加弥神社の境内が見える。
 丘陵への登り坂は近世は尾根伝いであったが、三ヶ所の急坂を迂回して中腹を縫う道筋に改修され、雑木林の中に道跡が見られる。途中の地蔵堂は尾根の沿道にあった地蔵を新道縁に移したもの。登り口から県道に合流するまでの約四・五kmは道幅三m前後、沿道に人家はなく雑木林・竹林・土取場の坂道を行く。崖縁はコンクリートで補強・舗装されている。高地の平坦地では沿道に畑が開け、河北潟・河北砂丘を一望できる。沿道は波自加弥神社の旧社地があったという地域で、四坊・四坊高坂・四王寺・地代・千杉などの集落へ下りる枝道がある。
 県道とはトンネルの上で交差して千杉口で合流する。沿道に新しい住宅団地が造成されつつある。古道を六・五mに拡幅した県道仮生堅田線は、加賀朝日の集落の中を通る。南側沿道の独立丘陵に朝日白山社が鎮座する。
 県道と一致してきた古道は、約二・二kmで北に別れ、そのまま進むと俵原集落の上にある民間信仰の小金山石碑にいたる。しかし、田近越はすぐ北東へ分岐し、約四m幅のコンクリート舗装で朝日山城の門口跡に向かう。城跡から南東に松根城跡、北東に一乗寺城跡の峰が遠望できる。道は本丸跡の南ぎわを迂回して北方への下り坂になる。途中、東側へ下りる枝道が田近越の古道である。未舗装で幅二・五mの坂道は、新しく改修工事をしたものである。
 竹林の山の中腹を下りると、小さな貯水池が多い棚田地帯にいたる。北千石の集落から六角形の切り目を入れたコンクリート舗装の新道を千石谷・琴谷の落合まで下りるが、その間に古道が見え隠れする。しかし、県道中尾津幡線が横切る辺りで古道はまったく消滅している。
 材木川を渡って、舟尾(津幡町)台地へ登る急坂の約五〇〇mは、掘り割った道跡の一部が見られるものの、草木が生い茂っていて確認できない。別の折れ曲がった道で台地に登れば古道に合流する。水田が開けた、ゆるやかな坂道を約六〇〇m登り、貯水池のある所で急傾斜の杉林に達する。杉林の約一〇〇mは、深い道跡が認められるものの通行できない。杉林を過ぎ舟尾集落までは、畑の間の農道として古道が残っている。
 古道は舟尾集落の南ぎわを迂回して、約三mのコンクリート舗装の道で棚田の間を北東の梨木平山へ向かう。途中、耕地整理で古道は消滅しているが、上平(金沢市)への山道で梨木平の尾根に達することができる。梨木平から県境になっている尾根筋を北東へ進む。幅三mで急坂のない道である。しかし、夏場は雑草がしげり歩行は困難である。県境の尾根が平坦になった所で内山(小矢部市)からの約四mの道が合流し、やがて常徳(津幡町)からの三叉路になり、そのまま南横根(同)に向かう。約二〇〇m北に乗光寺跡がある。
 田近越は三叉路の約一〇〇m北の途中で、東にNTTアンテナの目立つ枡山(升形山)へ向かって、道幅約三m未舗装の坂道を登る。郡境を越えればすぐ一乗寺城跡にいたり、八講田・五郎丸(小矢部市)への尾根道を下る。

三 沿道の文化財

22 波自加弥神社 金沢市八幡町、田近越口の約一km北の丘陵に位置する。延喜式神名帳記載、養老二年(七一八)の勧請と伝え、田近郷一八ヶ村を産子とする田近八幡宮の相殿という(『加賀志徴』下編四六〇頁)。河原市用水路が境内の前を通り、近世は同用水の守護神として、毎年八月一五日近郷二四ヶ村の水道祭勧進相撲を催した(『河北郡誌』六四三頁)。照葉樹の多い社叢は金沢市指定保護樹林.

24 四坊高坂八幡社境内 金沢市四坊高坂町へ六四。田近越の沿道に位置する。波自加弥神社の旧社地といわれ、『加賀志徴』(下編四六一頁)は元禄七年の略縁起を引用して「田近庄四坊高坂山字金清水に鎮座の処、兵火に罹り社殿悉皆焼失す。後、上俗彼神霊を八幡社の側に祭祀し、社を造立すといへり」と記している。しかし、境内に巨樹数本あるものの旧社地が当地と確認できない。

25 朝日白山社 金沢市加賀朝日町二-二八。田近越沿道南側の独立丘陵。『河北郡誌』は「天正の頃、村井長頼・高畠九蔵・原田又右衛門等、朝日城に在りしが、後ち高畠九蔵は帰農して此神社を勧請せりといふ」(六五一頁)と伝える。南麓の「御経塚」に縄文遺跡が出土している。

26 朝日山城跡 金沢市加賀朝日町。田近越がタケノクボという本丸跡ぎわの南東を迂回する。松根城の北西二・八km。一本木城とも称した(『三州地理志稿』九八頁)。天正元年(一五七三)八月、一向一揆がここを拠点に上杉謙信の進出を阻み(中条文書「謙信書状」)、同一二年八月、前田利家軍が修築して佐々成政軍に備え撃退した。西端の間口は土取りで消滅したが、本丸などの遺構が現存する。標高一八〇m、東西約一五〇m、南北約五〇m。

27 小金山石碑 金沢市俵原町、朝日山城の約六〇〇m西麓。集落の上の小金山・太閣山という多くの人骨の出た所。延徳年間(一四八九~九二)に俵原村の道場九右衛門が霊夢によって聖徳太子像を出土し、木津村(現七塚町)の正楽寺で「災に罹るやこの像も亦鳥有に帰せり」という(碑文名河北郡誌』六五九頁)。明治二八年(一八九五)現地に建てた石碑に、大正一五年、太子の像が出現するという風説がひろまり、参詣の群衆が続いた。近くに鉱泉が湧出した千屋人という跡地がある。

28 乗光寺跡 津幡町南横根の集落南端、田近越が枡山峠へ登る曲り角から約二〇〇m北に位置する。乗光寺は「天文日記」の天文一二年(一五八三)一一月一三日条・同一七年五月一八日条に「横根乗光子」などと記され、同二一年一二月一五日条に「横根乗光寺代越中国小矢部珍法」とあり、すでに田近越を通じて小矢部方面へ教線を広げていた。今石動町へ移った年代は明らかでないが、元和六年(一六二〇)九月(大谷大学申物帳)以降と見られる。応仁の頃(一四六七~六九)蓮如が「乗先卜云フ坊」に三日間滞在(蓮如上人縁起)の伝承があり、乗光寺跡の一部と伝える台地にシイの巨木と土塁の一部が見られ、明治一四年建立の「蓮如上人三宝鳥霊地」と刻んだ自然石がある。土塁の高さ約一m、石碑の高さ約九〇m。              (杉本晴介)

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加賀の道 第二章 第三節 沿道の文化財

第三節 沿道の文化財

2 青塚 内灘町室区と西荒屋区の海岸側の境界に位置する。海岸から四〇〇m余の標高三〇~四〇mの円錐形の小丘。四季を問わず青草が繁り、海上や浜往来からよく目立ち、康永二年(一三四三)足利真義下知状(天龍寺文書)の「塩海者限青塚」など荘園領海の裁定に使われた。近世のほとんどの絵図に記入がある。塚を古墳とする有力な史料・伝承はなく、青塚は地形による地名であろう。頂部に慶応年間(一八六五)以後の捕鯨の供養として、鯨の眼球を埋めた明治後期の祠(石堂)がある(コンクリート覆殿は昭和六〇年)近年、砂丘の激変で塚全体の原状は確認できなくなった。内灘町指定史跡

3 権現森 内灘砂丘の中央にあったクロマツの森林。近世は黒津船権現とも称した小浜神社の旧社地。黒津船は「此海岸千尺、所謂異国の黒船人津の処」(『三州志』四〇四頁)、「黒船の着たる津」(「久教軒道中記」)など、渤海国使着岸地の伝承がある。天保三年(一八三一)に同社が五郎島村へ移転する直前の境内は四万坪。後に加賀藩が用地にして砂除垣を設けて保護し(「黒津船旧地旧記之写」岩佐家文書)、高い地形を利用して遠見番所を置いたという(『河北郡誌』九八三頁)昭和五年(一九三〇)の測量図で標高五三・一m。『亀の尾の記』(一一二頁)に「古木の松生茂り石川・河北の山々はいふに及ばず、白山・立山よりも能見ゆる也」と記している。森林は昭和三六年の航空写真(内灘町企両調整課蔵)にも確認できるが、現在ほとんど消減した。内灘町指定天然記念物。

4 小浜神社礎石群 内灘砂丘の海岸側斜面、権現森跡の約四〇〇m南に位置する。元は広い権現森の一部であったと思われる。境内は飛砂・地震・火事などで再三移転しており、この礎石群は正徳四年(一七一四)から享和三年(一八〇三)までの社殿跡と見られる。昭和一六年(一九四一)雪解けに露出して発見された平地であった境内が、永年の強風雨によって急斜面になっている。戸室石の礎石・灯縫石など数十点が、医王山を指した並列であったという(『内灘郷士史』一二四~一二六頁)。内灘町指定史跡。

5 向粟崎道標 浜往来と潟縁往来の追分にあった標石「三州測量図籍」によれば、郡境(向粟崎村と粟崎村の村境)より一二町北に立っていた。南側に「左、はまのと・たかまつ道」、東側に「右、大さき道」、北側に「安政六巳末仲秋建之」、西側に「□□□□郎」と刻まれていた、施主は島崎徳兵衛の分家の島五家三代目、島崎権三郎(『内灘郷土史』二一四頁)であろう。高さ八五・五cm、幅一九cm、奥行一六cm、疑灰岩。内灘町歴史民俗資料館蔵。
6 下出の水戸 向粟崎古道の沿道に残存する湧水の水槽。西側の砂丘からパイプで引き石組の水槽に注ぐ。往来の人馬と住民の飲み水や洗い場になっていた。砂丘が住宅地になる前は、水戸が他に二~三ヶ所あったという。昭和三六年(一九六一)の共同水戸加入者五八戸(『内灘町史』一一五三頁)、現在一六戸の共同管理。町有地。板金屋根に覆われ、二つに仕切った水槽の幅約一m、長さ三・三m。

8 向粟崎菅原神社 旧道西側の高台に鎮座。近世の天満宮。天保一〇年(一八三九)八月建造の社殿や、文久四年(一八六四)二月嶋崎屋伍三郎奉納の船絵馬など水陸の要所に成長した在郷商人の財力を示す。境内に隣村であった本根布村の神明宮が置かれているのも特徴の一つである。境内の東西約一〇〇m、一六八坪。

9 機具橋 向粟崎村と大野川対岸の須崎村(現金沢市)に架かる橋。安政四年(一八五七)に初めて架けられ、向粟崎村の小字名をとって名づけた。(岩佐家文書「小紙留」)。これにより粟崎の橋までの片道一二〇〇m余短縮され、文久元年(一八六一)の「蓮湖真景図」にも描かれた。以後不通になった年代は不明であるが、明治一〇年(一八七七)島崎五郎治が私費で架橋して通行の人馬から橋賃を徴集した。同四一年に村費で架設して無賃となった。現在の橋は昭和三〇年日米行政協定による施設。幅六m、長さ一二〇m余。

10 蓮湖真景図 文久元年(一人六一)加賀藩の絵師佐々木泉弦の描いた大野川両岸の風景画二巻。家並・橋・船・人馬の往来などが精密に描かれ、美術的価値とともに史料的価値が絶大である。金沢市大野町、喜楽彦三蔵。縦二九・五cm、幅六五七・七cm、紙本彩色。金沢市指定文化財。

11 木谷家屋敷跡 大野川中流右岸、粟崎中島の木谷公園。木谷(木屋とも表記)家は藤右衛門を襲名し、加賀藩と結んで海運業を営んだ豪商。享和二年(一八〇二)三月や天保一五年(一八四四)九月の調達銀は、領内最多を上納し(『加賀藩史料』第一五編六〇八頁など)、その富豪ぶりは「蓮湖真景図」の屋敷にも表れている。明治以後衰退して、大正六年(一九一七)に家屋競売、跡地は分家の木谷吉次郎家に継がれた。しかし、同家に相続人がなく、昭和一六年(一九四一)金沢市に寄付され、同三二年五月に市が公園に整備した。

12 身代わり地蔵 往来から数m西にある粟崎墓地入口地蔵堂の一体。天明八年(一七八八)九月一日、粟崎八幡宮の村祭りで、加賀藩馬廻役組沖辰右衛門(四一歳)が、飲酒の上で村人と喧嘩して重傷、翌日死亡した。喧嘩相手吟昧の拷問で多数の村人が牢死した。寛政二年(一七九〇)六月一日、粟崎村頭振(伝承では船乗りの若者)の善七が「棒を以、辰右衛門を打開仕候」と自白、手助けをした者については、「誰と申義、身請候者も無御座」と黙秘し、同年九月二七日に「居住所」(伝承では能登往来)で「斬罪の上梟首」にされた(『加賀藩史料』第一〇編六頁)。粟崎村では甚吉・善四郎の名で村芝居などに語りつがれた。地蔵は慶応元年(一八六五)七月建立、像高五七cm、二重台座の高さ二五cm。

14 粟崎八幡宮 往来の西側の丘に鎮座。約八〇m四方の境内は沖辰右衛門事件の発祥地。文久二年(一八六二)木谷藤右衛門奉納の板地彩色絵馬「渡海船図」など一九点の額面と、天保一三年(一八四二)の獅子頭など工芸品の金沢市指定文化財を蔵する。

13 専念寺修交碑 往来が古川橋跡方向へ折れる直前に専念寺がある。その山門内側に手水鉢と並んで修交碑が立っている。碑には明治二七年(一八九四)に一〇名の記名で、共に学んだ旧交を讃えた漢文の銘文がある。粟崎村は明治初期に船乗り一〇一人・大工五〇人。日稼ぎ四〇人・醸造業一七人・四十(あいもの)商一五人など(皇国地誌)、近世から多様な職業構成で都市化し教育水準が高かったという。修交碑も寺子屋での旧交を記したものであろう

15 上の清水 往来の辻を二〇〇m余進んだ西側沿道にある水飲み場。砂丘からの湧水を引いた「取り水」で、御旅屋への通り道にあたり領主の飲用にも供したという。「上」は南方の意、背後の砂丘が鬱蒼とした森林であった時期までは「下」にも数ヶ所の水飲み場があった。三つに区切った石組水槽の幅九五cm、長さ一一五cm、板金屋根の幅三m、長さ二m。近隣住民の共同管理。

16 御旅屋跡 粟崎小学校敷地とその西側の丘、往来の辻から約四〇〇m南に位置する。寛文一〇年(一六七〇)前田綱紀が鷹狩りなどの休憩地として、粟崎八幡宮旧社地に築造した別荘。御亭の建坪八〇坪、以後も列松植樹・御舟入場などを拡大した(「粟崎御旅屋絵図」氏家文庫)。小学校前庭や御亭の跡という西側の丘の老松に往時の面影が見られる。

17 古川橋跡 青崎橋ともいい、機具橋が架けられるまでは中世以来の大野川を渡る唯一の橋であった。文化一一年(一八一四)五月手写しの「粟崎御旅屋絵図」では、古川橋の長さ四三間、新川橋の長さ二五間、ともに幅二間とある。しかし、間もなく新旧の川幅は逆転し、文政二年(一八一九)「大野川より犀川尻海迄絵図」(大野町日吉神社蔵)や同三年一〇月測量の「三州測量図籍」では新川を広く記している。明治以後、橋づめに木製の道路元標が立っていた。昭和四五~四七の埋立工事で古川は歩道のある道路(幅一三~一六、二五m)に埋立て、橋は消滅した。

18 高札場 貞享四年(一六八七)三月の新規高札場に「粟ヶ崎村」の記録(『改作所旧記』中編九〇頁)があるが、場所を特定できる伝承はない。

19 あらかわ橋 古川橋跡から一〇〇m余東の大野川に架ける橋。たびたび架け替えて現在は車も往来している。しかし、位置は近世と変わらず往時の面影を残している。昭和一三年架設、幅約五m、長さ約九〇m。逆水門併用鉄骨。

20 三ツ屋板碑 浅野川左岸の浜往来沿道に位置する、三ツ屋神社境内の二体。当地は「大榎とてあり、僧蓮如北国廻行せられしとき、此木に憩い給ひしとて、此所に楠部金五郎碑を立つ。道場あり」という伝承がある(『亀の尾の記』巻四)。五輪塔を二つ陽刻して上の方に装飾を施した板碑の高さ約六三cm、幅約四〇cm、戸室石。傍らに上部欠損した道祖神型陽刻板碑がある。

21 堀川揚場の町並み 浅野川左岸、JR北陸本線東側の金沢市堀川町の一部。浜往来粟崎道の終点・起点にあたる。文化八年(一八一一)「金沢町方絵図」(加越能文庫)では、浅野川に接する新堀川町・本堀川町と記した所。『綿津屋政右衛門自記』(『日本都市生活史料集成』城下町編三)に、「川ほりとほし、ひきふねにて、まい日かもつをあげ候事あまたなれば、ほり川まちとて、につみ、やどおふく、けいせい御めんあり」と、浅野川岸を掘った舟着場によって、遊廓などが多かったという賑わいを述べている。道路幅三mの町並みの一部が現存する。(杉本晴介)

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加賀の道 第二章 第二節 道の確定と環境の現状

第二節 道の確定と環境の現状

 能登街道は今浜宿から高松宿を過ぎると、砂浜海岸の口銭湯で木津村の砂丘へ向かうが、浜往来は、そのまま木津村・松浜村・遠塚村・北村・秋浜村・外日角村・白尾村の海岸を進む。この一連の集落は近世以前から「七塚」「浜七塚」「七ツ塚」といわれ(寛永七年「東本願寺申物候」など)、明治二二年(一八八九)に合併して七塚村(現七塚町)となった。七塚は各集落とも外浜に面し、砂丘内陸部が不毛であった時期からも比較的早くから松林に囲まれていた。延宝九年(一六八一)の河北郡十村役連名の植林願(『改作所旧記』中二頁)に「粟ヶ崎より高松まで、浜通に松苗大分に御座候」とあり、安政六年一八五九)の「灘筋村々木苗植付場所見取り図」(岩佐家文書)では、白尾村人家の周辺に立派な松林が描かれているが、以南は裸の砂丘に木苗を線のように植付けたばかりである。要するに、七塚では文字どおりの白砂青松の海岸を往来していたといえる。
 しかし、現在は渚線が後退して、砂丘際に護岸コンクリートが並び、大幅に狭くなった砂浜は歩行が困難になっている。海岸と砂丘の間を能登海浜道路が横切り、砂丘開発の間に残った空地は、松林からニセアカシア林に変わりつつある。
 大崎村以南の集落は潟縁に位置し、海岸には全く人家は見られなかった。海岸側の古砂丘と新砂丘地層の間にクロガケという黒土層が露出して、石鉄など縄文土石器を拾うことができた(石川県教委『能登海浜道路埋蔵文化財調査報告書』)が、これも半永久的に埋没した。
 集落のない外浜で、往来や漁船の標識になったのが、室村(現内灘町)と荒屋村(同)の村境になっていた「青塚」である。白い砂丘に青々とした草が繁っていた円錐形の丘のことで、近世以前から境界に使われた。しかし、砂垣・エセアカシアの繁殖・畑地の開発で、近年その面影を失った。
 青塚から約二・五km南にオアシスのように見えたのが権現森であった。文化一四年(一八一七)の十村書上に「先前より渡海往来の節、見当ニも相成、多ク之松林ニ候」(岩佐家文書「黒津船旧地旧記之写」)とあるように、四万坪の森林は遠く海上や浜往来の見当になっていた。しかし、現在は跡地も十分見分けられなくなった。権現森跡より海岸斜面に、ハマナス・イソスミレの群生が見られる。権現森跡から約四〇〇m南の斜面に、近世の小浜神社の社殿礎石群が露出している。同社は近世初期まではもっと海岸寄りに位置していたが、風砂によって次第に砂丘の内陸側へ遷座したものである。
 浜往来は現在の河北潟放水路を越え、内灘浄化センターを過ぎた地点、大根布村(現内灘町)の外浜で向粟崎村(同)へ向かって、砂丘を斜めに横切る。この行路について、「石川県河北郡誌」(以下『河北郡誌』とする)は「単に足跡を辿りたるに過ぎず。之を今日に比すれ其不便実に言ふに堪えぎるものありしなるべし」(九六五頁)と記している。
 しかし、砂地といえども村々から外浜へ出る道は固定しており、まして数多くの人馬が往来する道は地形や植生ではっきりしていた(塚本伝栄氏)。「蓮湖真景図」(後掲)の、「黒津船旧地」と記入した峰の西より、向粟崎方向へ描かれた砂丘の谷間が往来の道筋と見られる。然るに、この内の二六〇〇m余は鶴ヶ丘住宅団地に造成され、地形の旧状は全く消滅してしまった。
 「三州測量図籍」によれば、「海辺往来」と「潟縁往来」の往来追分は、河北郡の向粟崎村と旧石川郡の粟崎村の郡境から一二町北に位置する。この位置についても『河北郡誌』は「往時は今の向粟崎南端左側の道しるべより入りて海岸に出でたるもの」とあるが、南端は北端の誤りで、本根布村と向粟崎村の地境であろう。この分岐点に道標(内灘町歴史博物館蔵)が南向きに立っていた。その位置は『内灘町郷上史』の口絵に、現地での写真が掲載されているが、これも住宅団地造成で場所の見当がつかない。
 しかしながら、向粟崎小学校敷地東側の県道交差点から南の町道だけは、ほぼ近世のままの道幅と道筋で、金沢市粟崎町の旧道へ通じている。沿道の一部は、正徳四年(一七一四)、隣の本根布村が飛砂の被害により「松林の影に在所を建て居住仕度奉存候」)(『内灘町史』九一六頁・向粟崎区有文書)と、向粟崎村内に移住した所。明治九年(一八七六)に至って、「従来一村の景情、家建モ亦混清セル村落ニ付、今般合併」して、本根布村は名実ともに消滅した(同九二一頁)。本根布村肝煎喜平家の屋敷跡(本保弘明家)が向粟崎古道の西側に存在する所以である。
 向粟崎の沿道には、砂丘からの湧水による水飲み場が数ヶ所あったが、砂丘が住宅地化して以後は「下出の水戸」一ヶ所だけとなった。天保一〇年(一八三九)の区有文書に「水戸筋行寄候て、自然と浅ミ水引悪敷候ニ付、今度新水戸掘立、右上を以上居固、杭等丈夫ニ打立、上下水戸にて水堰留」(同九〇八頁)とある水戸は、現在もある下出の水戸であろう。往来の東側の潟縁を新田に開発したのも(同九〇五頁)、この豊富な湧水によるものである。
 往来の西側の小丘にある菅原神社は近世の天満宮、境内にクロマツ・ヨノキの巨樹が多く、往来人馬の小休憩地であったと思われる。この東側の潟縁は、「三州測量図籍」では、須崎村(現金沢市)との舟渡し場になっていた。
 往来は北陸鉄道浅野川線とこれに平行する県道を横切って続く。しかし、安政四年(一八五七)大野川に機具橋(はたぐばし)が架けられ、粟崎の橋までの片道一二〇〇m余が短縮され、須崎村・大河端村(現金沢市)へ直進することになった。架橋願には向粟崎村肝煎の他に内日角村・高松村の肝煎も名を連ねている(岩佐家文書「小紙留」)。この橋は近世末~明治初期に不通となり、同一〇年(一八七七)に有料の賃取橋が架けられた。しかし、「サッサ」「イタダキ」稼ぎは元通りの粟崎橋を迂回したという。同四一年に至って無賃の機具橋が村費で架けられ、以後、能登・外浜からの人馬は粟崎を通過しなくなった。
 浜往来の東側の大野川の右岸に、北前船の豪商島崎徳兵衛家の屋敷があった(達湖真景図)。明治一九年に破産した後、現在、豪邸の画影はなにも見られない。向粟崎村と粟崎村の間は、人家のない空き地であったが、近年は住宅密集地となった。往来と大野川の五〇~一〇〇mの間は、住宅の他に漁業関係や船舶レジャー施設が目立つ。
 河北潟の唯一の排水河である大野川は、古くは向粟崎村と粟崎村の間を流れて日本海へ注いでいた。その形跡は砂丘の谷間として大正年代まで残っていたという(角島一治氏『わがまち栗崎』二〇一~二一二頁)。正保四年(十六四七)の国絵図にも、粟崎村から直接日本海に注ぐ細い川が描かれているのは、往古の大野川の名残りと見られる。
 しかし、近世の大野川は、飛砂に押されて砂丘に平行する流れになり、さらに東に移行した新川が分流、古川との間に中島を形成した。文化一一年(一八一四)の「粟崎御旅屋絵図写」(氏家文庫)には、栗崎村は古川の右岸と中島に民家が集中して記されている。文政二年(一八〇五)の「石川郡大野川より犀川尻迄絵図(大野町日吉神社蔵)は、古川橋から北を「浜往来」、新川から東への道を「金沢往来」と記し、中島を利用した二つの橋で大野川を渡っている
 橋と粟崎村との関係は古く、貞和二年(一三四六)九月の足利直義下知状(天龍寺文書)に「湖海は青崎橋下を限る」と、青崎橋を荘園領境にしている。青崎とは後の粟崎村が定説である。覚文一〇年(一六七〇)の村御印は村名を「橋粟崎村」と記し、元禄一五年(一七〇二)にいたって「粟崎村」としたものである。大野川の主流は次第に古川から新川へ移り、昭和四五~四七年に、どぶ川と化した古川の埋立て工事で、川はアスファルト舗装の道路になった。この時当然ながら古川橋は消滅した。
 さて、往来は郡境から古川橋の手前まで、近世の道幅三mのまま市道となって残り、車は南へ一方通行になっている。この道は「三州測量図籍」に「粟崎村町中往来」と記入してあるように、近世から沿道は町並みを形成していた。往来の西側にある粟崎墓地入口の地蔵堂に、天明八年(一七八八)九月の加賀藩家臣打翻事件で処刑された村人の、「身代わり地蔵」がまつられている。往来の七〇~八〇m東側に古川跡の道路が平行する。この古川跡と大野川の間の北部に、木谷藤右衛門家の屋敷跡(木谷公園)がある。
 往来の東側沿道に、真宗大谷派専念寺山門がある。木谷家はじめ三百戸余の地域門徒に支えられ、境内には修交碑などの文化財がある。山門のすぐ南に橋の方向へ折れる辻がある。近世はY字路で、約四〇〇m南へ直進すれば、粟崎小学校校地にある領主の別邸「御旅屋御亭」跡がある。途中の沿道に「上の清水」がある。砂丘ぎわの湧水を引いたもの。それより西の丘に粟崎八幡宮がある。侍打翻事件はこの境内で九月の村祭りに起こった。境内は御旅屋から約二〇〇m北に位置し、侍と村人の接触が多い地域であったことがわかる。
 辻にもどって東へ折れると、すぐ古川跡の道路を横切る。戦前までは川の橋づめに「尾張町より二里一丁四十五間一尺」と記した木製の道路元標が立てられていた。古道を一〇〇m余東へ進むと大野川の「あらかわ橋」にいたる。橋は近世以来しばしば架け替わっているが、位置や幅はほとんど変わらず、往古をしのぶことができる。大野川の粟崎側は完全な護岸工事で整備され、木谷公園の樹木が川面に美しく映え、時々、橋の下をモーターボートがさざなみをたてて走る。
 あらかわ橋を渡って大河端村までの約一五〇〇mは水田地帯であるが、近世の往来は耕地整理と新道造成で消滅している。この区間は元文元年(一七三六)四月に、「大河端村・近岡村領悪田不湖、只今新開ニ被仰付田地ニ仕立申候」)加越能文庫「加州郡方旧記」)と記録されるように、河北潟が収縮した跡に残された大型の水たまりの「不湖」が多かった。文政九年(一八二六)の「加州河北郡図」(加越能文庫)にも、浅野川につながる「古川」と「フゴ」が描かれている。明治四二年(一九〇九)測量図には大河端村への往来に平行する細長い不湖が見える。この不湖は大正年代まで「大江」と呼んで残存していたという(角島一治氏)。
 要するに、浜往来はここで白砂青松の景観から一転して、水溜り・用水路・運河の多い水郷地帯の景観の中を往来したのである。
 大河端集落内は道幅三mの古道が残るが、すぐ県道向粟崎・安江線に合流する。県道は浅野川左岸堤防上の古道を六mに広げたもので、「粟崎往還」ともいい、槻並木を植え、下草に笹をつけていた(『加能郷土辞彙』一七頁)。堤防と平行して走る北陸鉄道浅野川線が沿道の三ツ屋・三口・諸江の各集落と隔絶した形になっている。近世でも「三州測量図籍」によれば、往来は村々よりやや離れた川岸を通っている。しかし、『亀の尾の記』は三ツ屋村について「不断茶店ありて、酒・飯をひさぐ」とあり、村と往来とのかかわりを示している。この往来を通って河北潟の舟を利用する場合は、大河端村の西隣の須崎村から河北潟北端の内日角村へ向かった場合が多い(岡部家文書「十村日記」安政四年一月二八日条など)。
 今の県道は七ツ屋からJR北陸本線の下をくぐると、浅野川左岸より離れて広い新道になる。しかし、古道は近世の道幅三mのまま浅野川と平行し、「三州測量図籍」が「町端ヨリ粟崎迄往来道筋」の起点とする「金沢・堀川町」に達する。この地点は明治二一年(一八八八)の「金沢近傍之図」にも「能州街道」の起点・終点にあてている。同時に米・籾などの年貢をはじめ、浅野川舟積みの物資を揚げ下しする「堀川揚場」といわれたところである。『三壷聞書』は元和六年(一六一〇)条に「堀川町とて傾城を置き、其所の有さまは兵庫や須磨・明石に異ならず」(巻八)と、その賑わいを表している。舟運の揚場であったと同時に、能登・河北郡浜方よりの人馬が往来する下町の風情が、現在も建て込んだ町並に名残りをとどめている。

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